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古宮大志(僕のレテパシーズ)インタビュー 2/3
2013.12.3 writer:sakanastyle
第一言語である日本語よりピンときたからサックスを吹こうとしたんですね
――「空知」を作ったのが13年前っていうと、大志さんが東京に出てくる前ですよね?札幌時代ですか?
大志はい。札幌時代です。
――その頃は当然レテパシーズもやってなかったですよね?
大志もちろんレテパシーズのレの字もなくて。高校生の頃に、北海道の岩見沢市ってとこに住んでたんですけど。高校2年ぐらいの時から札幌の161倉庫ってライブハウスでソロで歌いだしたのが始まりです。17の頃です。それで高校を卒業して、札幌に出て一人暮らしを始めて、まあいわゆるフリーターみたいな感じで161倉庫で歌ってたんです。札幌って結構都会なんですよ?それが嫌だなーと思って出来た歌が「空知」です(笑)
――東京に出てきて故郷を想って出来た歌なのかと思ってました(笑)高校以前も岩見沢だったんですか?
大志 2歳から13歳までは月形町ってとこで。13歳~18歳まで、高校を卒業するまでが岩見沢市ですね。地方では結構大きい街です。札幌から1時間くらいの距離なんだけども、岩見沢市っていうのはもともと都会だったんですね。その周りに空知地方の炭鉱の町がいっぱいあって。有名なのは今はもう破綻しちゃったけど「夕張」とか。炭鉱で栄えた町で、石炭が岩見沢から小樽のほうを通って、小樽から船で運ばれるっていうのが当時のルートだったんだと思います。だから岩見沢ってのは、みんなで遊びに行く町、居酒屋とか風俗街もあったし、ちょっと有名な街。
――なるほど。一番多感な時期を過ごした街なんですね。僕は一番最初に僕のレテパシーズを知ったのが、真昼の月の折込フライヤーに書かれてた大志さんの歌の歌詞なんです。「見知らぬ青年との会話」です。
大志 へー。そんなのありましたっけ?じゃあ俺が書いたんだな。当時は一番新しい歌だったかもしれないです。あんまり記憶にないけど(笑)
――南武線の車窓からの風景とかがショートムービーみたいにガンガン入ってきたんです。それで、その足ですぐ新宿MOTIONに電話して(笑)、新宿のタワレコに買いに行ったのが「LIVE AT MOTION」でした。もう今は売り切れなんですよね?
大志 あれはもう去年売り切れましたね。CD屋さんとかも忙しいから管理が行き届いてなくて、もしかしたら地方に1枚くらいあるかもしれないけど。基本的にはもう半年以上前に廃盤に。俺は廃盤癖があるから。こないだ関西にソロでライブしに行ったんですよ。そしたら、俺だけ物販にはTシャツしか置いてない。お客さんに「CDください」って言われても「すいません、ないんですよー」って謝って。ソロもバンドもCDはないんですよ。全部廃盤にしたから。
ギターイントロが流れ出して『この僕を精一杯好きになっておくれ』って1曲目の「反復」が始まったんです。その瞬間に俺は歌手になりました。いや、本当ですよ?阿部薫を聴いてサックスが第一言語よりすごいって人間が、その瞬間完全に歌になりましたからね。それまで歌を作ったこともないし。すべてはそれからが始まりなんですよ。だから友部さんなんですよ。歌いだしたきっかけは
――「LIVE AT MOTION」を一番はじめ聴いて、まず複音ハーモニカが耳に飛び込んできました。大志さん、元々はアルトサックスを吹かれていたんですよね?歌いだすきっかけは何だったんですか?
大志 高校2年の時、たまたま本屋で立ち読みした雑誌の特集が阿部薫と鈴木いづみだったんですね。で、俺感化されやすい性格だったから、読んだ瞬間にもうスイッチが入っちゃったんです。それでその特集で紹介されていた鈴木いづみの小説を、速攻でその店で予約して。でも阿部薫のCDは売ってなかったんですよ。今は再発とかあるけど、当時は岩見沢あたりじゃ全然売ってなくて、江別のビレッジバンガードに行ったら阿部薫に対してみんなが文章書いてる本があったんですね。その本を読みながら憧れだけが募っていって、それで何枚かのCDはビレッジバンガードにあったのを買って聴いて「これだ!!」って思って。本当に「これだ!!」って思って、サックスを買ったんですね。時間も暇もなく吹きまくりました。別に何を吹くとか、曲を吹くとかじゃないから。自分でしゃべっている言語が第一言語だとしたら、その第一言語を変えるってことだから。もう吹くしかねえ、と。英語を覚えたようなもんですよ。日本語ぐらい英語を聞いたやつが英会話をするべきじゃん?同じように俺は、日本語よりピンときたからサックスを吹こうとしたんですね。それで、もう暇はないから高校は辞めますって先生に言ったんですよ。学校に行ってる暇なんてない、と。いろんなことを天秤にかけても、もう時間がないんで無理ですって言って本当に退学しようとしたんです。だけど、公立の高校だったんで退学者が出るというのは良くない。担任は退学者を出したくないから、親とも何日も話し合って、「じゃあ、君は行きたい時に学校に来て、帰りたい時に家に帰っていいよ」っていう契約を結んだんです。3時間目から登校して昼にはもう帰宅したり自由にやらせてもらってたんです。学校に行く以外は人相変わるぐらいただひたすらにずっとサックスを吹いてたんですよ。そうしたら、修学旅行ってあるじゃないですか?あれだけは行かないと高校を卒業できないんですよ。俺はじゃあもう行かないよ、と。「俺、忙しいから、3日間サックス吹かないなんて絶対無理だから」って母親に言った。母親は俺に頭を下げて「頼むからこれだけは行ってくれ」と。もう高校3年でここまできたんだから行ってくれと。お婆ちゃんも俺にお小遣いをくれて、そこまで言うなら、行くかってことで行きました。で、東京~広島~京都だったんですよ。父親は性格的には俺と似てるんですけど、母親がいろんなものがすごく好きなんです。で、俺の読んでる本とかってあの人から紹介されたもんだし。
――すごく音楽や文化的なものに理解がある親御さんだったんですね。
大志 そうだったかもしれません。修学旅行に行ったのが2000年の春か夏なのかな?フォークシンガーの西岡恭蔵さんが自殺したんだよね。それで、自殺した後に日比谷の野音と、北海道の2箇所で追悼ライブがあったんです。空知地方に栗山町っていうところがあるんですけど、小林酒造っていう酒造があって、そこでよくライブをやってたんですよ。その追悼ライブに高田渡が好きだった母親が観に行ったんです。帰宅して「出演者ですごい格好いい人がいたんだよ」って俺に友部正人さんを教えてくれた。それで母親が友部さんの1999年に発売されたCD「読みかけの本」を買ってきて、俺は修学旅行の3日前くらいにそれを聴いたんだけど、でもその時はそこまでグッと来なくて変な声の人だなって思うぐらいで。でもなんかおもしろい人だなって興味はちょっと沸いたんです。あと実は複線でつながるんだけど、さっき話した阿部薫の「阿部薫全集」で大体のコメントがおもしろくなかった。だけど3人だけ面白い文章書いた人がいて、その中の一人が友部正人だった。したっけ、その人がCDでも俺の頭の中に入ったじゃないですか?友部正人って人がちょっと気になるなって。それでそのまま修学旅行に行ったんです。渋谷のタワレコに行ったの。それで俺は、お婆ちゃんとお母さんからの小遣いが数万円あるじゃないですか?したっけ、阿部薫のCDが北海道ではありえないくらい、何枚も売ってる。それを全部買ってやった(笑)。4万円分くらいだったかな。もう興奮して震えながら「わあーすっげえ!!」って。それで、母親が友部正人が好きだって言ってたから、お土産で買ってやろうって思って、何枚かあったCDの中で、1枚だけ「友部正人ベストセレクション」っていうのがあって、1500円だった。安いし一杯曲が入ってるしこれでいいやって思って。それで帰りの飛行機で、散々阿部薫を聴きまくった後に、なんか暇だし聴いてみよっかなあ?と思って、友部正人を聴いたんです。羽田から千歳の間の飛行機の中ですよ。ギターイントロが流れ出して「この僕を精一杯好きになっておくれ」って1曲目の「反復」が始まったんです。その瞬間に俺は歌手になりました。いや、本当ですよ?阿部薫を聴いてサックスが第一言語よりすごいって人間が、その瞬間完全に歌になりましたからね。それまで歌を作ったこともないし。すべてはそれからが始まりなんですよ。だから友部さんなんですよ。歌いだしたきっかけは。
――友部さんとの出会いが「にんじん」だったらまた違ってたかもしれませんね?僕もシチュエーションこそ違えど、やっぱり高校時代に友部さんの「反復」をはじめて聴いてぶっ飛ばされた経験があるので、その衝動は分かります。
大志 あのインパクトは本当にすごかった。みんなそうだと思うんですけど、情報を得たいんですよね?だから好きなミュージシャンのルーツを辿っていくんだと思う。例えば友部さんの「ジュークボックスに住む詩人」てあるじゃないですか?あれで、書かれている人を見るとシオンだったりチャボだったりどんとだったり、ポーグスだったり。それで聴きましたよ。高校3年で友部さんに出会ってからいろんなものを探して聴きましたね。ちょうどどんとが亡くなったころですね。どんとの「一頭象」が出たころじゃないかな。
――大志さんの営業日誌(SORACHI RECORDSの日記BLOG)にはハイロウズもたまに登場してきますが。世代的にやはり聴かれましたか?
大志 ハイロウズの前に自分の人生で本当に一番最初に音楽を聴いたのは、小学校5~6年の頃かな。父親は空知の出身で、母親は東京の人なんですよ。だからハーフなんです。田舎のコンプレックスもないし、都会のコンプレックスもないし。空知から母親が1年に2回ぐらい東京の実家に帰省するんですよ。その時に俺もよくくっついて行って。小学5年の頃、やっぱり飛行機の中で聴いた尾崎豊の「Oh My Little Girl」ですね。なんかスマップかなんかがドラマ化した時にリバイバルでやってたんです。聴いた瞬間、「音楽っていうものを真剣にやってる人がいるんだ?」って初めて思いました。自分の普段言えないような事をやってる人っているんだなって思ったのは尾崎豊が最初。
――小学生の少年の心に突き刺さってくる音楽ってすごいですね。
大志 なんていうか不思議でした。「変なの」って思いました。他の人達はお祭り騒ぎで音楽やってるのに、この人はなんでこんなに真面目に音楽をやってるんだろう?って飛行機の中で思いました。その後、アイドル的に打ちのめされたのがハイロウズで。中学校3年の時、目覚ましテレビの「メディア紹介」みたいなコーナーが番組中にあって、金髪のボーカルがガンガン頭を振ってて、ハイロウズの「千年メダル」が流れたんです。俺は頭がぶっとんだ。16の時に、札幌の市民ホールにロブスターのツアーを観にいったんです。やっぱり1曲目が「千年メダル」だったんですよ。それでバームクーヘンのツアーも次の年に観に行って。だからハイロウズは「ロブスター」と「バームクーヘン」ですね。俺がライブを観に行ったのは。その後に、阿部薫が全部をかっさらっちゃったからハイロウズなんてクソだ!!ぐらいに思っちゃったけど(笑)影響を受けやすい性格なんですよ。今はもちろんハイロウズが一番好きです。
――僕のレテパシーズの話をお聞きしたいんですが。バンド結成は東京に出てきてから?
大志 札幌から東京に出てきたのが22歳です。それはもう完全に敗北感に溢れるまま。札幌でギターの古宮夏希とカプリっていうドラムとやってた「アシカラズ」ってバンドを解散して、古宮夏希が抜けるって言い出したんですよ。アシカラズが札幌でちょっと評判になり出して。東京からもレコード会社の人が会いにきてくれたりして。すごくいい感じだったんですよ。古宮夏希は夏希で、中学校中退で、あいつは俺よりもキャリアが長くて15歳の時にはもうバンドやってましたから。スリーピースのバンドのギターボーカルで。俺と知り合って、俺の後ろでギターを弾くようになったけど、俺のバンドが評判良くなったから、「気にくわねえ」って言って辞めちゃったんです(笑)。「私はひろしのバックじゃねえんだよ」みたいな感じで(笑)それで俺は絶望のままどうしていいか分からなくて、色々頑張ってやろうとしたんだけど無理で、絶望のまま東京に逃げたんです。心の恥を消すために。で、そのあと、東京でアルバイトをしながらただ酒を飲んで、歌が出来たら歌ってたんですけど別にライブハウスでもうまくもやれずに。
「そんなひとことじゃ言えないですよ」っていうくらい、自分の無名と屈辱の日々を奪回するためにバンドをしたいと思ったんでしょうね。
――上京されてからすぐバンドをされていたワケじゃないんですね?
大志 バンドなんかやってないですよ。俺はもともとソロですから。バンドなんかやる気もなんにもないですよ。うるさいじゃないですか?エレキギターなんか好きでもなんでもないですよ。邪魔くさいだけです。なんだったら俺しゃべった方が早いと思います。だってラブソングを歌うより、「お前のことを好きなんだよ」って言った方が早いじゃないですか?「じゃあなんでお前バンドやってんだよ?」って言われたら、それは(数十秒、沈黙)…「そんなひとことじゃ言えないですよ」っていうくらい、自分の無名と屈辱の日々を奪回するためにバンドをしたいと思ったんでしょうね。それはもう本当にひとことじゃいえないです。俺だって自分が18歳の時に出した最初のソロアルバムが世界最高だと思ってますからね。でもそれを超えるものをもちろん今回作ったけど、でもそれは12年かかりましたからね。いろんなことがあってバンドをやるようになったんでしょうね。
――以前、対バンの出演者から大志さんが「僕のバンドどうでした?」って感想を聞かれて「あなたが歌ってる時より、今会話してる時の方があなたの人柄が分かるわ」って返したら、相手がショックを受けてて、「俺は昔から歌手になんてなりたくないね」って書かれていた日誌(僕のレテパシーズBLOG)が自分の中ですごいリアルで。
大志 俺、そんなこと書いてましたっけ?(笑)自分の日誌なんて読み返さないし全く覚えてないわ(笑)でも今、あらためてそのことを考えて話すとしたら。日本語よりも第一言語がたまたま歌だったりバンドだったらそれでいいけど、「音楽だから」「歌だから」っていうのを差別するのはおかしいと思う。日常会話も歌も全部一緒ですよ。母国語をしゃべることができないで、「歌」が第一言語の人は障害者です。障害がある人ですよ。それが無理だからやるんだから。俺は生きてる中で思っている事がうまくいえないなと思った時はあんまりないけど、もっと自分の感覚に近いものが歌なだけで、周りに「ザ・ミュージシャン」みたいな人達は一杯いると思う。それはいいと思うんです。だけど、そういう人達と俺みたいな人間が一緒くたにされているのがライブハウスやCDショップでしょ?CD屋はまだいいよ、選べますから。だけど、ライブハウスはもうダメだと思う。「なぜか?」って言ったら対バンがあるから。やるなら全部ワンマンにしなくちゃダメだと思う。もしくは、一世一代の渾身のイベントか、どっちか。例えばですけど、ほとんどの男は人生で一回は好きな女に「好きだ」って言うじゃないですか?ドキドキするじゃないですか?俺に自分のライブの感想を求めてきた奴に対して「お前、ステージでそのドキドキを超えてんの?」って思います。もちろんそれが全てだとは思わないよ?でもそれのドキドキってあんの?って思います。
――ステージで歌う高揚感も、異性への告白の瞬間のドキドキも一緒だ、と?
大志 全く同じことだと思いますね。ライブハウスも何を考えてるんか?って思いますよ。だって「風立ちぬ」観ました?2000円で着席して見れる。座席を選べたりもする。少なくとも観にいく人は宮崎駿が好きで観に行きますよね?ライブハウスは2000円じゃ観れないからね。したっけ、それはまだいい話。今、TUTAYAさんに行ったら100円でチャップリンの作品、全部観れるからね?チャップリンの20倍出せるんですか?って。音楽は生でやってるからって言うけど。だから俺はワンマンしかやりたくないから有名になりたいです。ライブハウスで対バンとかするのが嫌だから、今ライブすごい減らしてるんですよ。よっぽどじゃなきゃやりたくない。やっぱりワンマンが全てだと思う。だってハイロウズの対バンライブって観たことあります?何個かやってると思いますよ?だけどやっぱりワンマンでしょ?
――僕はブルーハーツもハイロウズもクロマニヨンズも何回も素晴らしい対バンライブを観ました。でも例えば数年前に銀杏BOYZとクロマニヨンズが対バンした後で、なんかの音楽雑誌のインタビューで「銀杏BOYZと対バンされたご感想はいかがでしたか?」ってインタビュアーの質問に対してヒロトが「僕は誰とも演ってません。僕はいつもひとりでロックンロールをやってます」って答えていて、ヒロトらしい表現だなって思ったことはあります。
大志 へえー。ヒロト、良いこと言いますね。それはさ、きっとたまたま企画者に呼ばれて対バンしただけで、「一緒に何かを作る」っていうんじゃないんだと思う。映画の二本立てをさ、観客と監督が話し合って作ったのか?って話ですよ。でも経済的な事情で2~3バンドになるっていうのは重々承知していますけど。それで成立すればいいですけど、それでライブハウスは「客が来ない客が来ない」って言ってる。利根川さんだって分かるでしょ?客が来ないって、じゃあさ、ここ10年の間に抜本的な改革をした人いますか?なんでチケット2000円のままなの?どうすればいいと思います?俺はこの値段を変えるべきだと思うんですよ。チケットを1000円にする。入場料です。そしたらライブハウス側は1000円分困りますよね?例えば新宿の〇〇〇〇〇〇でいきます。スタッフが4人います。受付さんPAさん,、照明さん、ドリンクさん。これをなんとか減らしましょうよ?確実に二人は減らせるんです。照明さんと音響さんは必要です。受付さんは5バンドも出演するんだったら、もうバンドマンに任せましょうよ?なんなら受付なんて無しにできますよ?次にドリンクさん、1日にどれだけ儲かってるか分からないけど、ワンドリンク500円じゃないですか?ライブハウスで500円以上飲む人って少ない。今の人って飲まないし、ライブ観たら帰るし、居酒屋でもないライブハウスで何杯飲めますか?俺なんかライブハウスに3時間いたら1万円じゃ足りませんよ。
ライブハウスは気軽に行けなきゃダメなんだと思う。ドリンクカウンターはもう自動販売機にするべきなんです。しかも原価で。麦とホップが150円で、黒ラベルは200円でいいじゃないですか?そうしたら人件費もないし、成立するじゃないですか?人件費が一番高いんだから。なんでお酒で儲けようとするんですか?したっけ、1000円で成立しません?やり方を変えないで今のまんまの店は潰れればいいと思いますけど。まあ俺なんかは関係ない外野ですけど、今ライブで直接関わっている場所だから尚更思います。CD屋さんとは違ってライブハウスって本来、いい音楽を大勢に聴かせられるスペースなわけで、それってすごいいいことだと思うし。
――学生時代の友人がライブハウスを経営しているけど、本当にギリギリの状態でやっています。やり方を変えると言ってもそんな簡単な話ではないと思います。大志さんがさっき提案した方法で実際やってる店って今ありますか?東京で。
大志 ドリンク無しの自販はないです。ただ〇〇〇〇〇だとマスターが全部やってるけど。音響・ドリンク・受付全部やってる。あの規模だから出来るんだと思いますけど。だから企業努力が足りない気がしますけど。〇〇〇〇〇がサブカルチャー好きな奴らで成立してるのって、他が酷いからだと思いました。俺、あそこは嫌いなんですよ。マスターが毎回歌ったりとか。そういうの嫌いだったんですね。でも逆に他のライブハウスの店長の名前が言えないんですよ。あのライブハウスがむかついた時に〇〇〇〇〇は嫌いって言えるんです。「〇〇〇〇はなんか肌に合わないな」って言えるんです。それは良いこと。でね、だからこれからはライブハウスってのは映画館みたいに限りなく無機質なほうが良いと思います。無機質でホールのほうが好きだ。映画館や歌舞伎座、ここは「場所」。俺たちは生活も芸術も全部一緒くたにして、新しい芸術を作らないといけない。だって芸術って常に生活する人の味方なんだから。
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